公園の草木

公園の草木の観察記録を書いています。

広島「原爆ドーム、原爆ドームの敷地内の落ち葉、上から見た原爆ドーム、タイワンフウ、C59161機関車、スズカケノキ、クスノキ」

1219日(水)
 

  原爆ドームを訪問した。前に1度見ているが、この光景からは悲惨さしか伝わってこない。原爆ドームの歴史を下記の資料で辿ってみた。


191545
チェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)出身の建築家ヤン・レツルの手により、広島県物産陳列館として落成する。
19211
物産陳列館は「商品陳列所」に改称する。
193311
広島県産業奨励館」へ改称する。
1943
すべての展示室が「決戦事務室」に転用される。
19443月末
館の業務は完全停止する。
194586日午前815
米軍が投下した原爆が館の南東160m、上空約600mで炸裂する。


 資料では、「館内にいた約30人は全員即死したとされます」と記録されていた。被爆前、「陳列館は、本県産業奨励の趣旨を体し、地方経済に及ぼす関係に重きを置くはもちろん、国家的見地より輸出品、輸入防遏(ぼうあつ=防ぐ)品を奨励するをもって方針とし・・・」とあり、幅広く展示会などが催され、広島はもちろんのこと、日本の産業の中心的な役割を果たしていたと推測される。

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 原爆ドームの敷地内にはエノキをはじめ何本かの大きな樹があり、落ち葉がぎっしりと積み重なっていた。褐色の落ち葉は、まるで絨毯のようである。
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原爆ドームの敷地内の落ち葉
 
 原爆ドームを後にして、近くのおりづるタワーへ入った。奥のエレベーターで屋上展望台上ると、広い空間になっていた。四方に壁がなく、冷たい風が吹きつけてきた。今日は小雨の降る天気なので、余計に寒さを感じた。このような天気なので、訪れる人が少なく、案内の人が付ききりで色々なことを説明してくれた。
 ここからは原爆ドームをはじめ、平和公園がよく見えた。中でも、上から見た原爆ドームは、下から見ていたのでは分からない事実を見せてくれた。館内には被爆前の広島県産業奨励館の写真が掲示されていたので、比較が出来た。ここが日本の産業の中心的な役割を果たしていたとはとても思えない廃墟そのものに見えてきた。保存のため、要所、要所に補強がされているが、どれだけ現状が維持されるか危惧を感じた。
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上から見た原爆ドーム
 
 おりづるタワーから広島市民球場沿いを進んだ。広島市民球場は周りが塀で囲まれていて、中は工事をしているようであった。右前方に紅葉をした樹が見えてきたので、そちらへ進んで行った。そこは小さな広場になっていて、丁度、園児が寒い中を遊んでいた。遠くから紅葉して見えた樹へ近づくと、樹にタイワンフウと表示されていた。タイワンフウは、先程、平和公園内で見てきた。平和公園内のタイワンフウは緑色をしていたので、違うように見えた。しかし、フウの仲間は綺麗に紅葉するので、葉の形を確
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タイワンフウ
 
 道を隔てたところに機関車が見えた。珍しいと思い近づいた。C59161の表示があった。下記の資料に、「走行距離:223万㎞(地球56周分)、製造年月日:昭和21年(1946年)74日」との記述があった。「すごい距離を走り通した」と思うと同時に、原爆投下の翌年に製造された機関車であることが分かった。
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 C59161機関車
 
 戻り始めるとスズカケノキの街路樹が見えてきた。モミジバスズカケノキと思われる。この樹は、樹皮が剥げ、茶褐色の斑点状になるのが1つの特徴である。上をよく見ると、まだ球状の果実が残されていた。
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 旧広島市民球場へ来ると、街路樹はモミジバスズカケノキからクスノキへと変わってきていた。クスノキにも黒い小さな果実が残されていた。
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クスノキの果実
 
撮影:1128

  記  平成301213日(木)