飯給から養老渓谷
思い出を包み、大戸から橋を渡り、飯給に入る。
右折して飯給の駅を目指すが、意外と遠かった。
右折したら橋は直ぐだと思ったが、これも違っていた。
私の住んでいた君の屋さんのあったところは、知らぬ間に通り過ぎてしまった。
竹藪に変わっていて、通り過ぎるときが気付かなかった。
アッという間に飯給駅に来てしまった。
飯給駅は昔から寂れていて、今日も寂れている。
青色のペンキが塗られたトタンに囲まれていて、
如何にも寂れた駅を醸し出している。
しかし、ホームに出ると、
春暖かになると、この辺一体が菜の花で埋め尽くされ、
サクラ花のピンクと混ざった景勝地に変わる。
その時には、多くの人が訪れるという。
寒い今はその面影はない。
このように美しい町づくりが進んでいるのは、
昔加茂中の職員として同僚だったM先生を中心とした
グループのボランティア活動の成果だといわれている。
車は万田野方面へと進んだ。
万田野へ通じる道は急坂が続く。
車に乗っていても、急なことが分かる。
生徒はこの道を一時間近くかけ通った。
みんなこの道を通うことで、人に負けない精神力を養ったことだろう。
しばらく急坂を昇ると、左に視野が開けてきた。
上の方に一本の煙突が見える。
杉田建設がつくった焼却炉ということだ。
右には老人ホームが併設されている。
車は中に入った。
山の中に広大な敷地を占め、ひとつの大きな産業になっている。
市原市のゴミや小学校の給食の残りが処分されているという。
車は飯給から徳氏へ進んできた。
ここで見たかったのは里見校舎だ。
私が初めて勤めた学校だ。
以前インターネットで里見校舎が売りに出されていることを知って、気になっていた。
レストランに変わった里見校舎は閉鎖されていた。
まだ買い手が着いていないように思えた。
外から中を伺うことが出来た。
建物の中央にある玄関の様子は、私が初めて勤めたときのままに見える。
昔の趣がそのまま残されている。
生徒と楽しんだ日々のことを思い出す。
里見校舎の下の橋を渡り、柿の木台に入ってみた。
ここの右側に今は亡きO先生の家がある。
O先生は福島県育ちで、加茂の人になった人だ。
人良しで、私を大切にしてくれた。
横浜に帰ってからも加茂を訪ね、泊まらしてもらったこともある。
O先生のご冥福を祈りする。
里見校舎前の坂を下ると、間もなく田淵の家々が見えてきた。
さらに進むと再び小湊線が見えてきた。
ここは月崎である。
踏切を越えた右側に月崎小学校ある。
渦潮国体の時、
月崎小学校から田淵まで生徒と共に聖火を運んだことを覚えている。
ここの脇を通り、久留里の方へ向かい「市原市民の森」へ案内してくれた。
私がいた頃には、この施設はなかったと思う。
中に入ると目に映ったのは正面の大きな崖だった。
砂岩の成田層が波を打って流れ模様を描いていた。
足湯があり、近くには木造細工が無造作に横たわっていた。
月崎からは山間部に入り、両側に崖が目立ってきた。
この辺は大久保、白鳥地域である。
車はどんどん奥へ入った。
折津を抜け、石上さらに進んで、養老渓谷まで来た。
渓谷の駅の写真を撮ろうと考えていたが、
アッという間に駅を通り過ぎ、車は坂を下っていた。
撮影は明日にすることにした。
ここから温泉街までは下り坂になっている。
両側は崖が迫っている。
以前はコンクリートを吹いていなかったが、
今日はコンクリートが吹かれ、地層が見えなくなっている。