神奈川宿歴史・史跡めぐり 2
5月30日(水)
昔、神奈川小学校の横を「上無川( かみなしがわ)」が流れていた。この名前がいまの神奈川、神奈川県の名前に繋がっている。このことを考えると、ここの地が神奈川の発祥の地になっているといえる。
上無川の案内板
この「上無川(かみなしがわ)」の横に神奈川小学校がある。明治8年6月に開校し、平成27年11月31日に創立140周年記念式典を行った。戦後長い間米軍に接収され(1945年10月6日~1957年1月10日)、住民はこの学校へ通えなかった(資料1)。
資料2:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82)7781
東神奈川の交差点を渡り、金蔵院へ向かった。金蔵院の前には熊野神社がある。昔は、金蔵院と熊野神社が同じ敷地内にあったという。今は道で仕切られている。金蔵院からの参道は東海道まで延びていたという。また、本堂前には徳川家康の「御手折梅」があったという。
金蔵院
金蔵院の案内板
ここから地区センター方面へ延びている道は、松並木が植えられ、昔の東海道のイメージを醸し出している。風景が風景だけに、この道が旧東海道と思っている人が多い。旧東海道はあくまで、国道15号線(旧東海道)である。熊野神社を通り、東神奈川公園を越えると、地区センターがある。この前に高札所がある。高札所とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である(ウイキペディアより)。
高札所の案内板
高札所
暑いところを歩いてきたので、地区センターで休憩をとった。中へ入ると、冷房が効いていて、外の暑さが嘘のようである。室内には神奈川宿復元模型があるので、皆さんは改めて昔の様子をしみじみ味わっていた。
神奈川宿復元模型
地区センターを出て、直線に進むと、成仏寺がある。ヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン (James Curtis Hepburn) 博士および、宣教師のブラウンやバラーが家族とともに居住したと伝えられている。古地図によると、京急線の向こう側にある慶運寺と隣り合わせに位置していたようだ。
成仏寺の入り口
成仏寺の案内板
浦島寺と呼ばれる慶運寺へ来た。神奈川地区の東側には浦島太郎の伝説が伝わっている。この寺は浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったといわれる浦島観世音が安置されている。
浦島伝説について
竜宮から帰った浦島太郎は、両親のお墓を探し出し、そこに観音堂を立て、乙姫様から授かった守本尊を安置した。このことが観福壽寺(浦島寺)の始まりになる。この場所は現在浦島ヶ丘にある浦島丘中学校のそばにあったといわれている。観福壽寺は慶応3年(1867)・推定・に類焼し、明治5年(1872)に廃寺となった。そのため、残されたものは慶運寺へ移されることになり、慶運寺が浦島寺と呼ばれるようになった。慶運寺境内の「浦島観世音」堂には観福寿寺から移された聖観世音菩薩が保管されている。
慶運寺の入り口
慶運寺を見学する参加者
撮影:5月27日
記 平成30年5月29日(火)